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コラム-6「民家が語るもの」

近年、俄かに注目を集めている古民家。その魅力についてはすでに多くの方々が語ってきた。これほどまで魅力あるものが今まで顧みられず朽ち果てるに任されていたことは不思議だが、「発見」というのはそんなものかもしれない。
いずれにしろ、古民家は「発見」された。あとは、これが単なる一時の流行に終わらないことを祈るばかりだろう。古民家への注目が一時の流行に終わるか否かの分かれ道はどこにあるのか、と言えば、その魅力の中心をどこに置くか、に掛かっていると私は考える。

例えば、最も多く語られているのは「素材」としての魅力である。風雪に耐え、年月を経た古材の持つ風格は誰にもわかりやすい大きな魅力である。
もう少し突っ込んで、新建材や輸入材、民家同様に近年人気上昇中の国産材と比較するのも有意義だ。これらは基本的には伐採後間もない新しい材料だ。しかし、木は切り倒されて木材となった後、数百年の間その強度を増す一方だという。
古材の硬さは強度の証しでもあるのだ。朽ちるに任せておくのは大変惜しい。

「木組み・工法の面白さ」も魅力的だ。地域に根差した技術の産物である古民家は、その土地の民俗資料の宝庫であり、発見の楽しみもある。文字の無い建築の教科書といっても良い。

また、「古民家での民家的な生活」における癒し効果もせわしない現代人にとっては大切なものだ。

さて、この中で古民家の魅力を永続的に、今後さらに広範囲に渡って伝えてくれる可能性のあるものはどれだろうか。

「古民家での民家的な生活」に憧れる人は多いに違いない。しかし、そういった生活を実行できる人は限られているように思う。現代の生活とかつての農山村での暮らしとのギャップもある。

「木組み・工法の面白さ」は、私達専門家には魅力的だが、追及の度が過ぎると手段が目的化して、建築主に歴史的意義を無理強いしかねない危険もありそうだ。

「素材」としての古材は、実は有限である。全国各地にまだこれだけ残っている、と言っても、壊してゆけばいつかは無くなってしまう。民家を残したいのであって、古材の流通が目的ではない。古材が尽きた時、「民家再生はオシマイです」では、あまりに淋しい。

そこで、敢えて「古民家」という言葉から「古」を外し、改めて「民家」について考えてみたい。

人々がある地に居を構えようとした時、まず考えるのは素材の選択である。
よほど特殊な動機が無い限り、大量かつ簡単に手に入る身の回りにある物で住まいを造ろうとしただろう。日本では多くの場合、木と土と草が使われているが、農村では稲や麦が屋根の葺き材になり、土に混ぜて壁材になった。石や竹なども含めて基本的には木と土と草や食べ物の副産物で家が出来ていたのは必然的と言ってよいだろう。

次に造り方だが、もっとも原始的な接合方法は縛ることだという。稲や麦藁を縄にして稲や藁を固定する。縄が入手出来ない時は蔓を用いて柔らかい内に縛る。硬化すると簡単には解けなくなる。縛るという原始的かつ簡易な工法が草屋根を造る場合には最も合理的な工法だったわけだ。

木材の接合についても、伝統木造は金物を使わないといわれているが、近代以前の金属を手に入れるコストや製造に要する木材消費量から考えたら、継ぎ手・仕口などの木材だけで組む方法を工夫したほうが理にかなっていただろう。
その為の工夫が日本の誇る大工技術を生み出したのかもしれない。

こうして考えると民家は、お手本やマニュアルを見ながら設計したり、分厚いカタログから設備機器を選んだり、住宅展示場で適当な規模と間取りの家を買ったりする住まい造りの対局にあると言える。
民家の建設には絶対的な正解を求めることよりも状況に応じて答えを見つけてゆく柔軟さこそが要求されたわけだ。歴史的に考えたら規則や情報に振り回されている現在の私たちのほうが異様なのかも知れない。
私達が失い、古民家の「発見」によって取り戻すべきものは実はこうした「住まい造りへの積極的な柔軟さ」なのではないだろうか。
「民家の再生」を一時の流行で終わらせないために、「住まい造りへの積極的な柔軟さ」について今後も考えて行きたい。